坑夫ぬーどるのブログ

社会不適合系社会人のぬーどると申します。ロンドン大学通信課程での勉強や、高配当米国株と株主優待を中心とした株式投資について気が向いたときに書いていきます。本ブログは所属団体等とは無関係な個人の見解です。 twitter:@nuh_dl

「変わってないね」

何となく最近考えたことをメモ代わりにブログにしていきたいと思います。

 

 

先月、地元の知人と会う機会がありました。地元の学校の同級生の集まりに、なぜか偶然呼ばれたので行ってみたのです。呼びかけてた人のSNSをこっそり発見して見てみたところ、いわゆる意識高い系みたいになっていたので、宗教とかマルチ商法の勧誘をうける恐れもあったのですが、まあ怖いもの見たさで行ってみました。(実際に勧誘を受けることはなかったです)

 

指定された飲み屋に行くと、見おぼえのある顔が見えました。10年以上ぶりの再会です。まあ、それくらい長い間会っていないだけあって、特に仲が良かったというわけでもなく、あまり思い入れもないような人たちなんですけどね。挨拶がてら少し言葉を交わすと、その同級生は嬉しそうに

「変わってないね」

と言いました。その言葉に私はとても違和感を覚えました。私はこの10年間で大きく変わっているはずなのに…

 

飲み屋に入ると懐かしい面々が集まっていて、普通の飲み会が始まりました。まあ、だからどうというわけでもないのですけどね。そこで交わされる会話は懐かしいものでした。同級生の誰々は今何をしている、誰と誰が付き合った結婚した、仕事の愚痴とか、地元の同級生と普段ほとんど接点のない私にとってはどれも初めて聞くような話でしたが、どことなく懐かしい感じがしました。

 

最初のうちは懐かしくてよかったのですが、徐々にどことなく寂しい思いがこみ上げてきました。恐らく私は、地元の同級生に対して、自分とは違う道を選んで生きている人との異質性を感じたいという期待を持っていたのでしょう。私がこの10年間で様々なことを学び、経験し新たな自分を築いてきたのと同様に、彼らがこの10年間で築き上げてきた、私とは異質な人間を知りたいという思いが私にはあったのです。

 

しかし、彼らが私などの同級生に求めていたのは、異質性ではなく同質性でした。いや、より厳密に言うと、異質な他者とのコミュニケーションというもの自体が、そもそも想定されていないような感じがありました。ちょっと違う観点からものを言っても、よくわからないような顔をして共感によって無理やり処理しようとしてきましたし、今の仕事の話とかも学生時代の部活の話と同じような語彙と感覚で話されていました。(身バレの恐れもあるので詳しい会話の内容は書きませんが)彼らは、自分たちが子どものころと同じ同質的な存在であることを前提としたコミュニケーションをとっていたのです。

 

私は一応高校のころから、学問的な素養を身に付けてそれを基礎として身を立てていくというある種の偏った道を選択しました。そして、高等教育を受けて一応の学問的素養を身に付け、それをある種の眼鏡のように用いて短いながらも会社生活を送ってきたという自負があります。そのため、恐らくそれとは別の道を選択(本人たちには選択したという自覚すらないのかもしれませんが…)した彼らとは、もはや昔とは違って(良くも悪くも)異質な存在なのだと思います。そのため、相互の同質性を前提とし共感を基礎としたコミュニケーションではなく、相互の異質性を尊重し異なる価値観から学び合うコミュニケーションこそがふさわしいはずなのです。

 

しかし、彼らは、地元の同級生であるというだけで私との間の同質性を(意識的にか無意識的にかは分かりませんが)前提とし、子どものころと同様に同質な他者との間の共感に基づくコミュニケーションを行おうとしてきたのです。彼らにとって私と彼らが同質であることはいわば前提であるため、私がこの10年間で形成してきた異質性について気付くはずもなく、10年以上前と同じまなざしで私を見ていたのです。(そもそも、彼らは同質性の中でのコミュニケーションしか経験をしてきておらず、そもそも異質な他者とのコミュニケーションというもの自体が経験がないのかもしれませんが)

 

そう、「変わってない」のは私ではなく彼らだったのです。

 

 

しかし、私は文章を書くのが下手だな。修行が足りないですね。もっとブログを頻繁に更新していきたいものですね。

 

また気が向いたら更新します。