坑夫ぬーどるのブログ

社会不適合系社会人のぬーどると申します。ロンドン大学通信課程での勉強や、高配当米国株と株主優待を中心とした株式投資について気が向いたときに書いていきます。本ブログは所属団体等とは無関係な個人の見解です。 twitter:@nuh_dl

「勉強ができる」ことについて

私はいわゆる「勉強ができる」タイプの人間であることはまあ確かだと思う。いわゆる難関大学を卒業しているし、そこそこ難しい資格も持っている。なんなら模擬試験で全国トップ20に入ったこともある。まあ、今更になってだからどうということもないのだが。学生時代は当然周りも「勉強ができる」人しかいなかったため、「勉強ができる」ことが何を意味するかについて共通了解があった。それが当たり前だと思っていたのだが、就職をして必ずしも「勉強ができる」わけではない人たちに囲まれてみると、そもそも「勉強ができる」ということに関する認識が、彼らと私との間でかなり異なっているようだということがわかってきた。

 

「勉強ができる」わけではない人たちが「勉強ができる」人に対して抱いているイメージは「暗記が得意」で「たくさんの知識を覚えている」というものが多い。正直言って、そのイメージには違和感しか覚えない。私は入試難易度がかなり高い大学に現役で入学している「勉強ができる」タイプの人間であるが、暗記は得意ではないし受験勉強に際してたくさんの知識を覚えた記憶はない。むしろ私は自分が暗記が苦手だと思っていたので、なるべくものを覚えずに問題を解けるようにするのが受験勉強であったような気がする。そもそも、受験勉強において大きなウエイトを占める英語や数学といった科目は知識の暗記で処理する類のものではなかろう。

 

思えば中学や高校のときまじめで一生懸命勉強をしているのにどうにも成績に現れない同級生がいた。その同級生はまさに「勉強ができる」ということを「暗記が得意」で「たくさんの知識を覚えている」ものと理解していたような気がする。とある同級生は中学で地理の勉強をしているときにブルネイの首都の名前まで覚えていたが、成績は(いい方ではあったが)校内トップとかではなかった。また、高校では分厚い英単語帳を頑張って覚えていた同級生がたくさんいたが、センター試験レベルの語彙数も少なめの単語帳しかこなしていなかった私の方が英語の成績ははるかに高かった。どうやら「勉強ができる」ということを「暗記が得意」で「たくさんの知識を覚えている」と捉えている人は少なくないものの、たくさんの知識を暗記している人が必ずしも「勉強ができる」わけではないというのが事実なのだろう。

 

私は教育の専門家でもないしただ少しばかり「勉強ができる」だけの人間でしかないが、私なりに自分の経験から「勉強ができる」ということを定義してみたい。①何が重要な情報かを判断できること、②重要な事項について深く理解していること、そして、③それを具体的な問題において活用できること。もちろん素人考えなので専門的にはおかな定義なのだろうが、そう的外れでもないのではないかと思っている。この定義を前提とすると、知識の暗記は不要ではないが②の段階の一部に過ぎない。もっとも、この私の定義はいわば後付けであって、「勉強ができる」ことを定義してから「勉強ができる」ようになる努力をしたわけではない。もし、中学生や高校生の時に「勉強ができる」ことを自分なりにでも(「偏差値が高い」以外で)定義できていれば、もっと効率的に勉強ができていたに違いない。目的が明確であればそれに至る道筋も自然と見えてくるものであり、実践も容易となっていくだろう。

 

もっと議論を深めることができればいいのだが、私の中では問題はすでに解決してしまっていた。「勉強ができる」ことが自分の大きな特性の一つとなってしまった今の環境において、「勉強ができる」ことに関する認識の相違をどのように捉えればいいかという問題である。「勉強ができる」私のような人間と「勉強ができる」ことについて認識が近い人がいるならば、その人も「勉強ができる」人間である可能性は極めて高いはずである。

要するに、「勉強ができる」ことを「暗記が得意」で「たくさんの知識を覚えている」ことだと捉えているから、彼らは「勉強ができる」ようになれなかったのである。